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鈴木庸生(人名検索)

追悼(5)

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父とお酒  酒井 遼子 
 「父とお酒」 世の中でもお酒好きで通っておりました様に私共子供といたしましても父とお酒を離して考える事は出来ません。一、二合の晩酌に陶然となり下手な詩を吟じ、調子外れの歌を唄った上機嫌の時の事から、時々大脱線をして二日酔いの渋い顔で引篭もり、子供達迄足音を忍ばせて歩いた折の事迄、お酒に関係しての父の憶い出は数限りなく、今でも私共寄りますと種々話のたねはつきません。日頃の無口がお酒を飲み出すと上機嫌で話すようになり、飲み過ごすといろいろの失敗を演じお酒飲みとしての欠点も長所も遺憾なく備えて余す所が無かった様に思います。
 「父と信仰」 程度こそあれ、化学者として生活して居られる方は一般的に宗教の価値を低く見て居られるのではないでしょうか、この点父は私共にこう教えてくれて居りました。即ち「宗教と人間と何方が先かと云えばそれは人間が先である。人間あっての宗教であるが、宗教の持つ内容は無限であって科学の及ばない境地であり、人間はそれに依って救われて行かねばならぬ」と。祖母が熱心な真宗の信者でしたので父も何かとその方面に心を向け、また色々お世話も致したようで御座いましたが、強ち<アナガチ>祖母に対する孝心ばかりでは無かったと思います。経文等もよく知って居りました。私共に対しましては強要も制限も致しませんでした。
 「父と私達」 父は表面、子煩悩と云う方ではありませんでした。むしろ子供を煩がって居る時の方が多う御座いましたがそれは始終何かしら考えて居る風でありましたので子供達の騒ぎは思考の邪魔になったからでありましょう。しかし一杯機嫌に寛いだ時は私達と面白く遊び又いろいろのお話を聞かせてくれました。その時の話は天文や宇宙、地球の無限に大なるものから微生物の如き無限に小なるものの話等、私達の興味をそそらずには置かない科学的の話なので御座いました。私達が成長致しましてからは自分の子と云う所有的の観念よりむしろ一個の人格として扱ってくれました。弟達の進んだ道にしろ、それに対する父の態度は真実に深い父の愛を感ぜずには居られないもので御座いました。晩年の父は真に好々爺となり私の子供達とも本当に煮炊きをするおままごとをして遊んでくれましたり、動物園に連れて行ってくれたりよき祖父として終始致したので御座いました。私には未だ父亡き事が感じられないので御座います。只一日も病床につかず嘘の様に呆気なく逝った父。他家へ嫁して居ります身にはことに今でも林町へ参れば父が機嫌よく迎えて下さる様に思われてならないので御座います。
その人を憶う 酒井 勉
 私には書くべき責任のある原稿でありながら何か難しい課題の如く思われて遂に今日(十月六日)迄、経って了った。それはこうした追憶を書くに当たって其の人の身近くあればある程「群盲触象」<群盲象を撫でる=「北本涅槃経」等から凡人は大人物や大事業の一部分しかつかめず大極からの見方が出来ない>の喩<例え>の如く其の人の一面丈しか、然も良い方の一面丈しか描き出せない事をおそれたからである。そうした良き一面のみ集められた追憶は真実の「鈴木庸生」其の人を表す事にはならないからである。此の「鈴韻集」と云うべき書が出版されるに到ったのは稲葉、佐藤両博士其の他故人とは入魂の各位のまことに涙ぐましい御厚意の賜物である事は申すまでもない事であり、それに対しても私の此の拙稿は無躾其のものであって、幾度か躊躇はしたのであるが之も聊<イササカ>故鈴木庸生その人の人間性の一片を伝える、そして此の集を出版していただいた所以を記し得ればと思って敢えて巻末に載せていただく事とする。

 鈴木庸生と私は岳父と婿と云う浅からぬ世の姻縁ではあるが、然し其の縁を凡そ除いても猶<ナオ>、彼我相識の間柄であった事丈は残る。固<モト>より彼と私は年輩も余程の隔たりがあり、其の専門の部門も異なってはいたが、我々の先輩の彼の様な傲<オゴラ>ず、桁衒<テラ>わず、器其の物如実に現してはばからぬ人は少なかったし又それを知るに及んで愈々<イヨイヨ>彼を畏敬するに到ったのは、私共の機縁の始めの動機となった事であった。
 当時私は建築資材の研究をしていた一介の貧書生であったし私共が結婚後の生活も決して豊かなものではなかったが、彼は一向そんな事に頓着しなかった様であった。いくばくもなく支那事変に会して私も外人であった師の許を離れ建築設計の業に独立した。滄桑<滄海桑田の略=大変化>の際、彼は種々私の為に援助をおしまなかった。事務所の場所を心配して呉れたり、仕事を紹介して呉れたり、恐らくは彼の最も不得意とする事であろう、之等の事を熱心に面倒見て呉れた。よく、肩書きも職名も書いていない、ただ名前と、其の私宅の所だけの彼の名刺に「親戚の者、建築屋酒井勉を御紹介申上げます」と書いて呉れたりした。母が傍らから「屋は余りヒドい」と云うのを私も彼も「ヤアこれで結構」と呵々大笑いした事もあった。
  こうした彼の知遇は今尚憶いおこしても感謝である。

 彼の突然の死に際して、其のあわただし内に思いついた事は、せめて散り散りになって居る彼の随想や寄稿を生前の知己の方々に聞き合わせてでも取りまとめて置き度いと云う事であった。それは、個人的な仕事に生前彼の秘書の様な女房役は誰もなかったから、彼は原稿を書く様な場合でも夜中に起きてしたり、時には理研を休んでしたりして、それが雑誌や新聞に載ってもそのまま又読み返して観たり刻銘に取りそろえて蔵<シマッ>て置く様な事はトンとした事がない、従って理研の方々の様な専門の方には解って居られるであろうが、子供や家族は父の学界、業界でした事や彼の書いた思想の様なものでもよく知る事が出来ないであろうと思ったからである。私はこうした考えから此の遺稿のまとめ役を自らやり遂げようと思った。之がせめて知遇を得た彼への貧しい私の償いであると思った。私は出来る丈の力を致すから義弟妹も協力して呉れと一、二回話して見た。費用の点も貧しい私の資産ではあるが、彼が生前紹介して呉れた或る工場計画の未受設計料を之に当てれば良いと自らも決めて、原稿用紙など大分買い込んだりした事があった。然し其の後忌日のある日、之を母にも話して見た時「お父様はよく人が亡くなった後、遺稿等の出版を企てたり、贈られたりすると、何だか不賛成の様で(こんな事をするものじゃない)等と云って居られましたヨ」と云われた。私は瞬間成程と思った。
 世の中の事は往々独り決めではいけないものである。「人の為に謀って忠ならざるか」である。人の為に---其の人の気持ちは彼を知る私にはよく解る気がした。「どうぞそう云う事は・・・」と生前のギコチない彼の遠慮と謙虚のしぐさが目に見える様で、其の後の忌日忌日にも私はつい此の事は口にしなかった。
 彼が運命論的な考えを持っていたかどうかは私も知らない。然し強いて誇張し様ともしない、強いて隠し立てし様ともしない、在りのまま、思うまま世上知られたら知られたまま、誤解するものがあっても面と向ってでなければ強いて釈明をしようともしなかった彼である。だから「人間、寿命で死んだら、それ迄の事」と考えて居たのは当然であったであろう。然し其の人今や亡しである。

 彼鈴木庸生が若くして満州でした事業、其の後理研、何れも今は其の良き後継者を得て、其の企ては幾層倍にも発展されるであろう。彼は之で充分満足もして居るに違いない。遺稿を残して殊更に存在を世に銘記しなくても、其の人はそれで良いのである。
 戦場に於いて常に部下に「自分がたとい戦死しても屍は棄てて顧みるな」と教えていた部隊長が奮戦々死した場合、部下なり戦友なりが、たとい日頃の諭しはあっても、その奮戦の地を標し、戦闘の模様を詳にして、之を遺物と共に、帰りて遺族につげる事は、部下として或いは又知己として当然の事であり、麗しい情景でもあるのである。
 鈴木庸生の場合でも同様である。せめてそれ丈はしても良いだろうと思う。果たして其の後日が経つに従って、旧の御弟子の方々、殊に生前御入魂の方々が相寄る毎に遺稿の如きものの発行が再び別の意味に於いて計画された。此の再度の御談は、私共継縁のものとして一面彼の生前の気持ちを充分知り乍も只々感謝以外の何物でもなかった。即ちただ鈴木庸生の人生足跡を墓誌に止める意味に於いて、遺稿のの出版は世の常のそれの如く、絢爛たるものでない事を希<ネガッ>ったのみである。之をしも彼としては否みはしないであろうから。

 数年前のことである。彼が還暦の時、理研の研究室の皆様から記念に戴いた立体写真像を自宅の食堂にかざって、いかにも自らよろこんでいた様が今尚私共の目に浮かぶ。愛弟子の皆様から戴いた其の像が殊に科学的の作品であった事を大変よろこんで「よく似ていますネ」と云うとその製作の方法等を説明して独り悦に入って居たことであった。此の度「鈴韻集」が出来て其の霊前に供する様になったならば、さぞ彼には其のときと同じ想いで、皆様の厚意を感謝するであろう、私はかく確く信じている。